永島慎二先生から生前いただいたの初期の油絵。

エピソードあらかると–Episode a la carte–

Posted on 2015/10/17

20120118115829先月(2015年11月30日)水木しげるさんが亡くなりました。
21歳でのニューギニア戦線における地獄のような体験が、後の水木さんの作品に大きな影響を与えているといいます。
今回は当ギャラリー主宰・川嶋のブログから、唯一無二の幻想画家・水木ワールドに関するエッセイを4本ご紹介致します。
(このページは、気軽に語るアート体験やエッセイのコーナーです。)


水木さんといえば、誰もが思い浮かべるのは『ゲゲゲの鬼太郎』などの妖怪ですが、自らの実体験をもとに戦争をテーマにした作品も数多く描いています。

水木さんは太平洋戦争の真っただ中である’43年、21歳のときに召集令状を受け取り、歩兵として陸軍に入隊。

入隊して間もなく、太平洋の激戦地であったニューギニア戦線に出征し、そこで想像を絶する過酷な経験をすることになるのです。

負け戦の戦場で、敗走中にマラリアに感染し、高熱で錯乱状態になりながらジャングルを彷徨…麻酔もない状態で、負傷した腕を切断されたといいます。

《死と隣り合わせの状況でジャングルをさまよいながら、幼いころの記憶が次々と浮かび、妖怪が見えた》と言う水木さん。

現世で地獄を体験し、そして今天国へ…。93歳での大往生でした。


a幻想芸術家「水木しげる」
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20120118/p1

偉大なる「幻想芸術家」の作品集に感動のため息…。 妖怪原画集『妖鬼化 ムジャラ』より、ほんの一部を紹介します。
(ノボ村長の開拓日誌より 2012-01-18)


20110911111520水木しげる「福島原発の闇」
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20110911/p1

戦争の実像を描いてきた水木さんは、原発で働く労働者の姿に、無責任な大本営体制のもとで末端兵士として死にかけた自らの戦争体験を重ねていた様子だった。
(ノボ村長の開拓日誌より 2011-09-11)


c マンガ家の一日
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20110602/p1

絵はまさに芸術の域ですね。デューラーの銅版画ですね。 人生はスティーブマックィーン主演の映画「パピヨン」ですね。 戦時中の話は映画以上、ぜひマンガを見て納得してください。でも一番面白かったのは画文集「のんのんばあとオレ」子供の頃に水木ワールドの原点は八割方創られていたんですな~。
(ノボ村長の開拓日誌より 2011-06-02)


dのんのんばあの死
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20140116

「転生」ということばがあるが、それは、亡くなった人の心が、ほかの人に宿り、生きつづけることだとすると、オレはいまでも、のんのんばあの心が、オレに宿り生きつづけているような気がしてならない。
(ノボ村長の開拓日誌より 2014-01-16)





 

恩師肖像→クリック拡大

「教育とは、教えられたことをすべて忘れた後に残っている先生の匂いである」という名言から始まる「アル中先生」について語ったエッセイを川嶋(当ギャラリー主宰)のブログよりご紹介いたします。
高校時代に生徒たちは、すでにそこにある方程式の解説を先生に求めるのではなく、多様な価値観や生き方があるという事を先生たちから学びたかったのではなかったか、と思うのです。
このエッセイにある美術の宍戸先生は確かに呑んベぇでしたが、影響を受けた多くの生徒が教師やアートの分野に進み、確かな足跡を残す事になります。
亡くなって40年以上経過しても仲間が集まれば先生の話題に花が咲くすごい方でした。 エッセイ「アル中先生」をどうぞご覧ください。
アル中先生 http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20131001/p1 ノボ村長の開拓日誌より
(冒頭の絵は、エッセイに登場する「罵倒された生徒」によって描かれた呑んベぇの宍戸先生です。作者は館長の私、中嶋でございます。)


アートにまつわる川嶋氏のブログから2本ご紹介。

スタジオジブリの名を世界的なものにした名プロデューサー鈴木敏夫氏は、サラリーマン時代までアニメのアの字も知らなかったといいます。 「お金」の管理が重要なプロデューサーと「創造」にすべてをかけるアーティストとの関係に刺激された「あったかギャラリー主宰 川嶋信雄」のブログを2本紹介いたします。 ぜひ、ご覧ください!

  アーティストは話が長いジブリ_1 「アーティスト」というのは、誰かが考えたことを、より速く、より正確に、より計算高く、なんていう「競争」とは世界がまったく異なります。 朝から夜中まで働き(常に創造を追っているという意味で)とても忙しいのに、話がとて~も長い。
次の話を読んでいて、なるほどな~と思う身近な人たちの顔が浮かんできましたよ(笑) http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20140603/p1   サツキは宮崎駿さんだったジブリ_2
宮崎駿氏は、昭和16年に4人兄弟の二男として東京に生まれます。
胃腸が弱く、医者には20歳まで生きられないかもしれないと言われます。
6歳のとき、母親の宮崎美子さんが病気になります。結核菌が脊髄を侵すもので、おんぶしてとせがんで、涙ながらに断られます。
小さい宮崎駿少年は無理していい子を装いますが、「生まれてこなければよかった」という気持ちが出てきます。
『トトロ』のサツキが宮崎駿さんだっただけではなく、母上までもが『トトロ』のストーリーと同じだったのです!
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20140702/p1


やはり「リアル」はすばらしい! 書道と言うべきか、 絵画と言うべきか?
その迫力あるスケール!六畳ほどの大きさの作品もありました。
古代文字書芸術展「亀甲展」
川嶋信雄 3月9日の土曜日は出不精の私が、これまた出不精の友人一名とそうでないもう一名の三人組で、「ああ上野駅」へお上りをしてきました。
友人が出展している古代文字書芸術展「亀甲展」見学に行ったのです。
http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20130311/p1

アーティストDomiとの偶然の出会い 柏木 陽子
もともとDomiとの出会いは、 私が日本の女性アーティスト(古代文字アーティスト 天遊さん)を仏にキュレートするためにロワールを訪れたとき。
パートナーのギャラリーで2週間エクスポジションをしながら、街をブラブラしていたら現地マダムに声をかけられ、その日の夜、ご自宅にお呼ばれしておうちディナー。(この女性がタダモノではなかったわけですが…)
そのときに「近所に住んでるんだよ〜」と一緒にテーブルを囲んだのが、アーティストDomiでした。 →Dominique Savignard http://gallery.knoxox.com/dominique-savignard/

「ホダミナコーホダミナコー。ナカジマミユキー」「は?本田美奈子??」聞き覚えのある名前を連呼するDomi…かなりの日本オタク;; 本田美奈子のマリリ〜ンをうたってあげたら大喜び!! 自宅には広〜い日本庭園に鳥居、鯉の泳ぐ池には赤い太鼓橋、茶室に生け花という凝りようです。
そのときは「日本大好きな変わり者のおじさん」だと思っていたのですが、こんな素晴らしいアーティストだったなんて…!!! あとで知り大変驚きました。
彼独特の素晴らしい世界観を持った、おしゃべり好きでオモシロイ、白いあご髭のアーティストです。
[余談:最初に声をかけてくださった女性が、お城のような家に住んでいる裕福なマダムで、毎年大きなアートイベントを開催している方でした。(敷地内に馬を3頭飼っていて、聞くと乗るわけではなくペットだという。。すごすぎる)]

Live performance in France 2012 (TEN-YOU)

それから、古代文字アーティスト 天遊さんは毎回参加させていただくようになり、フランスに日本アートを紹介しています。
また、世界遺産シャンボール城で日本人アーティストのエクスポジションを開催してもらうための交渉にも同行しました。 こんな出会いがころがっているフランス。
想像を超えた可能性にワクワクします。
柏木 陽子:デザイナー(東京在住)



川嶋氏のブログから紹介します。 勇気をもらった絵 川嶋信雄 職歴多彩な私は画廊に勤めていたこともあったんです。もう30年以上も前。絵を売る仕事は大変でしたが、今になってしみじみ思います。なんて素晴らしい経験をさせてもらったのだろうと……. (↓続きはこちらからどうぞ↓) http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20121005/p1


あずかったり、返したり….の思い出 中嶋敬之   仕事場の片隅から、一枚の絵が出てきた。

未完成というか描きかけの思い出の絵だ。 …………..学生だった頃、高校時代の友人が、私の住んでいたボロアパートの4畳(4畳半ではない)の部屋に居候していた。
その友人が変な男を連れてきた。 つるじ君といって芸大の指揮科をめざしてるらしい。
数週間ほど経ってつるじ君は「今度、山奥の温泉でバイトするので家財道具をあずかってほしい」と言う。
狭いおれのボロアパートに家財道具を運び込んで彼はいなくなった。
どこに行ったか連絡のとれないまま一年以上過ぎた。

忘れかけてた頃突然現れ、家財道具を運んでいった。
なんでも、雑司ヶ谷に住むことにしたという。
それから一年ほどたって、彼は音楽をあきらめたわけではないだろうが、某印刷会社に勤める。

どこまでほんとなのか解らん彼だったが、バイトで忙しいオレを見て彼は言った。
「金はおれが出すからオレの絵を描いてくれ。社会人になったら絵を描く時間なんて、なくなるからさ」
未完成の絵を彼は「これで、いい」といってとりあげ、おれに金を渡しながら喜んでくれた。

その後、数年彼との交友は続き、オレは仙台にもどり、更に10年後、成り行きでフリーのデザイナーもどきになる。(いろいろあって、ならざるをえなかった)
金のやりくりに、苦労しながらも娘が生まれ、1歳になったころ突然彼からの電話。
「金は、足りてるか?今100万ある。必要ならあげるよ。自営っていうのは大変なもんだ。いらないなら、おれは飲み代に使うよ。」と彼は言う。
「じゃぁ、くれ!」と、おれ。 翌日新幹線で来て、オレにゲンナマで100万ポンと渡すと、酒を飲んで東京に帰っていった。

それから、更に2年後、彼から再び電話。「あのさ〜〜、よかったら、あのときの金、少し貸してくれる?」
「え?….いいよ」と、おれ。
少し余裕が出てきたので即、100万持参して彼の住む東京へ行った。
そしてあとでわかったことだが、彼はどうやら末期のガンで余命いくばくもなかったらしい。
「この絵、預かってくれないか?」そう言って、昔描いた懐かしい絵をオレにわたし、ヨーロッパへ旅に出た。

旅先から、1度か2度電話があった「オレのことは探さないでくれ。それとあの絵、いいか、おれが、ただゴリに預けたんだからな」
……あずかったり、返したり……あずかったり、返したり…..彼はあれからどうなったんだろう….そんなことを、この絵を見て懐かしく思い出した。

(おしまい……)


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