明治を描いたロバート・ブルーム ”日本での日々” (大野順子ロスウェルさんより)

明治23年(1890年)日本に滞在し、江戸の香りが色濃く残る日本を描き続けたアメリカの画家ロバート・ブラム(正しくはロバート・ブルーム)を当ギャラリーで紹介をしたのは昨年(2014年)2月。
(-明治に残る日本の江戸情緒を描く-http://gallery.knoxox.com/robertfrederickblum/)

アメリカ在住のアーティストJunko Ono Rothwell(大野順子ロスウェルさんのエッセイをお借りし、ナビゲーション的に構成し、ブルームの作品を紹介したものでした。
その後、Junkoさんに出版社からブルームの画集を出したいという連絡があり、彼女はエッセイの掲載で企画に参加したとの事です。
画集は「JAPAN ロバート・ブルーム画集(芸術新聞社)」として今月8月、日本初の出版です。

どうやら、当あったかギャラリーを見た出版関係者がJunkoさんに連絡をとり、企画が実現したらしいという、うれしいメールを先日いただきました。
そして掲載されたエッセイの原文(Junkoさんが何年もかけて調べたノーカット版)も届きました。

私はそれを拝見し、美術史としても大変貴重な労作だと感じました。
美術館や個人蔵の作品、記録、手紙を探し出し、翻訳し、解読し構成する…とんでもない作業だったことは容易に推察できます。

この「エッセイの原文」、出版された画集にはページの都合等で掲載できなかった部分もかなりあるとの事。そこで、あったかギャラリーではそのままノーカットで残したい旨を伝え、今回掲載することにしました。
異国での芸術家の葛藤、悩みそして感動をまとめあげたすばらしい内容です。
どうぞ、ご覧ください。
(ギャラリー中嶋 記)

The-Picture-Book(絵草紙)

The-Picture-Book(絵草紙)


明治を描いたロバート・ブルーム     大野順子ロスウェル

17年前、旅の途中でふとヴァージニア美術館に立ち寄った私は一つの絵に釘付けになった。
若い日本髪の女性が畳の上で頬杖をついて浮世絵らしい絵を広げて見入っている〈絵草紙〉という小さな油絵だった。
女性の横顔、手、髪は迷いのない筆でさっと描かれて観る者を引き付ける。
この絵は一体いつどこで描かれたのだろう?
もしかして明治頃?
それがブルームとの出会いだった。

翌年、ワシントンのスミソニアン博物館に出かけた時、また思いがけずブルームの絵に出会った。
それは、〈青い帯〉というパステル画だった。
着物を着た日本女性が青い帯を締め、白い鳥が描かれたうちわを持って立っている。
髪型や着物の雰囲気で、この絵も明治の頃描かれたのではとすぐに思った。
女性がチラッっと横を向いたその表情をなんと生き生きととらえていることか。

この続けてのブルームとの出会いで私はすっかり彼の絵に引き込まれてしまった。

この画家の目を通して明治がどう描かれているのかを知りたくて、美術館を訪れ資料を探してまわった。
美術館で展示されているブルームの作品はわずかだ。
まして個人のコレクションとなるとほとんど観る機会がない。
運よく目にした〈絵草紙〉はアラバマのワーナー・コレクション、〈青い帯〉はニューヨークのホロウィツ・コレクションだった。

私がこれまで出会う事のできたブルームの作品と残っている手紙などから、この画家の日本での2年3か月の足跡をたどってみたい。

(エッセイの原文PDFの理解を助けるため、序文として「JAPAN ロバート・ブルーム画集 芸術新聞社刊」より部分的に抜粋させていただきました。)

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原稿は24枚で構成されてます。
時間のない方は
先ず、以下の抜粋した文章をご覧ください

 

The-Blue-Obi-1890-1893-Pastel-on-canvas

The-Blue-Obi-1890-1893-Pastel-on-canvas


ブルームは5月21日にチャイナ号でサンフランシスコを発ち、6月6日に横浜に着いた。この時彼は 32歳だった。

(p1より抜粋)

ブルームはニューヨークから執行(しゅぎょう)弘道という日本人と一緒に旅して来た。執行弘道は当時ニューヨークで日本の美術品を扱っていた。
二人はニューヨークで知り合い、執行のおかげで第 3 回内国勧業博覧会の審査員という肩書を出発前にもらうことが出来たので、横浜の税関も特別扱いでさっさと通ることが出来た。
(p2より抜粋)

第3回内国勧業博覧会は明治23年4月1日から 7月31日まで上野公園で開かれこの時の審査部人名表には審査諮問員としてフェノロッサと並んでブルームの名前が記されている。
ブルームはフェノロッサを二度訪ねて行った。フェノロッサは東京大学で哲学などを講じていたが岡倉天心を同行して日本美術の調査も行い自らも収集していた。ボストン美術館での東洋部長の職を得て帰国することになった。
(p3より抜粋)

友人オットー・バッチャーに宛てた手紙。
「私が抱いたのはこれまでで最も素晴らしい経験だと言うことだ。
恋におちたら 相手の魅力がなにもかもを包んでしまうということがあるだろう?
今のところ日本は私にとってその状態なのだ。
日本を私のためにこのままにして置いて下さいと祈っている。
私は魅惑の地に足をふみいれたのだ。
私の人生の中で ぼんやりしたあこがれだった期待が本当になったたった一つの例だ。
できるだけ長くこの国にいたい。
1年か2年か分からない。状況に任せる。
健康が保てるならいつまでもいたい」
(p4より抜粋)

ブルームが日本に来たのはアーノルドの「ジャポニカ」と言う記事の挿絵を描くためだった。
3回連載の予定だった。
アーノルドは明治 22 年(1889 年) 娘と共に来日し、麻布に住んでいた。
(p5より抜粋)

ブルームは着いてすぐ挿絵を仕上げねばならないのでかなりプレッシャーを感じた。
まだ東京の街にも慣れないのにアーノルドからの矢のような催促。
それに加え うだるような暑さ。……………
とうとう、東京を後にし、写生旅行に出かけることにする。
向かったのは江の島、そして箱根だった。……………
日本語をしゃべれないブルームがどうして旅が出来たのか?
実は一人の日本人の友人が出来てこの旅に同行しいろいろ世話をしてくれた。
ただほとんど英語が出来ないので意思の疎通には苦労したようだ。
しかし、一緒に旅をするうち、「彼に理解できる程度の英語で話せば」だんだんとブルームの考えを読み取るようになり役に立っていく。……………
この友人の名をブルームは後に書いた “An American Artist in Japan” の記事の中で「カツシカ ヨリカズ(Katsushika Yorikazu)」と言っている。
(p6より抜粋)

ともかく、ブルームは東京へと引き返した。東京ホテルで挿絵に没頭することとなった。
ところがホテルでは仕事がやりにくいと感じたブルームは街中に住みたいと思い始めた。
その願いを叶えてくれたのは またしてもカツシカさんだった。
皇居の近くの有楽町 3 丁目 1 番地に一軒家を見つけてきてくれたのだ。
当時、外国人はみな築地の外国人居住地に住まなければならなかった。
例外として特別な場合はその外に住むことが認められていた。
そこでブルームはカツシカさんの英語の個人教師ということで役所に出かけて行き許可を取ってきた。
有楽町に住むことを許されたわけだ。
(p10より抜粋)

素描_女性

素描_女性

 

ある日ブルームはパステルで写生していた。その時のことをブルームはこう書いている。
「通りで写生をしていると周りを取り囲んだ人々が長いこと私と私の絵を観察している。そのうちみんなが言っているのが聞こえた。「うまい、うまい」最初は「うまい」の意味が分からなかったがミヤケ(友人カツシカさん)がそれは詩や絵画をみて感嘆した時使う言葉だと言った。文字通り、「うまい、食べたいほど上手だ」ということだ。」
(p12より抜粋)

(ブルームは)日本画の中で北斎が最も好きだ、これは絵の中の絵だと言っている。
そして床の間にある、日本に来て購入した雨の中に咲く花の日本画についても褒めている。
これは柴田是真の作だった。そして日本画と洋画についてふれ、日本人は洋画を学ぶのをやめて日本固有の日本画を発達させることを望むと言っている。
(p13より抜粋)

日光と反対に伊香保はとても気に入り、街中にイーゼルを立てて何点も写生している。
「質素な伊香保は誇りの「日光」の堂々と近寄りがたい貴族的な素晴らしさの極端な反対で絵になる「ぼろと切れ端」の場所だった。
我々は日常のおなじみの俗事に非常に魅了され、すぐに気に入った。
すぐさま熱心に仕事にかかった。写生道具の紐を解き、イーゼルとスツールを通りに置いた。
これをみても 我々の生き生きとした熱意、情熱が分かるだろう。
山の険しい斜面に構築された伊香保はユニークな眺めの通りを形成する無数の石段を登っていく。
その特質のため普段見られない角度を求めての珍しい機会を提供してくれる。
梯子のような通りや家が空に登るように層になって建っている事で、町は他の日本の村と明らかに奇抜なコントラストとなっている。
他の村では絵になるのは全体ではなくて個々の物や孤立した物などの「小さなかけら」に制限される。
快適さを愛する観光客の流れから伊香保は遠く離れているのでたどり着くのに面倒で時間がかかる。
そのおかげで昔風の魅力と礼儀が保たれている。
我々にとっては新鮮で心地よい。」
(p17より抜粋)

日本で描いたブルームの作品には風景画より人物画と街の様子を描いた作品が多い。
庶民の生活はもっとも興味をひかれた題材だった。

「路上で見るあらゆる小さい事は私に大変興味を起こさせる。
見ること自体が私に洞察力と思考の糧を与えてくれる。」

「赤茶けた筋骨たくましい労働者、行商人、売り子、流しの芸人などはスケッチしたい人を誘惑する。歩き方、態度、顔つきは私にとって目新しいものだ。」
(p18より抜粋)

飴屋

飴屋

ジャポニカの挿絵が終わった後で新しい構図の「飴屋」を油絵で描き始めた。
画面手前には赤ん坊をおぶった少女がみえる。この少女もジャポニカに出てくる同じモデルらしい。
この油絵の裏には手書きのラベルがあって伊香保の場面だと書いてある。
おそらく人物は東京のアトリエでモデルを使って描き、背景は伊香保のスケッチから構成したと思われる。……………
ブルームは風景よりももっと人々に興味を抱いたようだ。
横浜に着いたその日に目を引き付けられたのは船の周りにやって来た小舟に乗った物売りや荷役人夫たちの姿だったと書いている。……………

日本の女性の美しさにもひかれ数多く作品を残している。
「彼女たちは慎み深く上品でとても自然にそうしているようにみえる。
男性と主人に奴隷的に服従しているにもかかわらず、女性の状況を見れば思いもよらないほど気質が明るくて充実感がある」
「日本の女性から目が離せない。彼女たちは上品でしとやかで・・女らしい。」
そして人々の服装が西洋化されていくのを嘆いている。
「女性はまだ伝統的な着物を着ている。素晴らしい。・・新しい(西洋式な)髪型は似合わない。」
服装だけでなく町がどんどん西洋化されていくのにも心を痛めた。
「もちろん文句を言ってもしょうがないが日本人のなんでもてきぱきと解体し、世界に追い付こうと熱望し順応しようとしているのを見ると憂鬱になる。」と書いている。
(p20より抜粋)

日本の女性

日本の女性

1919年に出版されたマーテイン・バーンバウムの本の中ではブルームのパステルについて次のように書かれている。
「パステルを扱う技術のうえから言うなら、ブルームの日本を描いたパステル画に勝る物はない。
小さな棒状のパステルでブルームは芸者の肌をまるで白粉油でもつけたかのような絹の肌に描き出す。
思いがけないパステルの光沢が魔術のようにちりばめられて宝石の ように輝き出す。」……………
バーンバウムはブルームは自分の仕事を過小評価していると書いている。そして性格については「繊細な芸術家らしく自分の仕事に満足できない」と言っている。……………

ニューヨークに帰ったブルームはその翌年、日本での自分の体験を書いた挿絵付きの記事 “An Artist in Japan”を 3回にわたってスクリブナーズ誌に掲載した。
ニューヨークのメンデルソーン・ホールの壁画の制作にもとりかかった。
しかし帰国後 10年して、45歳の若さで肺炎で亡くなった。
(p22~23より抜粋)

 

 

Robert Frederick Blumロバート・ブルーム

画家。1857年アメリカ、オハイオ州シンシナティ生まれ。
1876年に万博で見た日本の展示がきっかけとなり、日本への渡航を思い描くようになる。
1890年、『スクリブナーズ・マガジン』の挿絵を依頼され、念願の来日を果たす。
1892年に帰国し、日本を題材にした《飴屋》《花売り》をパリ万博、シカゴ万博に出品。 《花売り》はシカゴ万博でゴールドメダルを受賞する。
1903年ニューヨークの自宅にて、肺炎により死去。

エッセイ著者
Junko Ono Rothwell (大野順子ロスウェル)

山口県に生まれる。
岡山大学教育学部特設美術工芸科卒業。渡米後、ニューヨーク州コーネル大学で英語、美術を学ぶ。
その後ジョージア州アトランタに移り、油絵をマーク・シャトウブ、パステル画をアルバート・ヘンデルに師事する。
2003年アメリカ・パステル協会よりマスターパステリストと認定される。

あったかギャラリー:大野順子ロスウェル作品
http://gallery.knoxox.com/junko-ono-rothwell/

Junko Ono Rothwellさんについて詳しくはこちらをご覧ください。
http://junkoonorothwell.com/index.htm

Junko Ono Rothwellさん;主な作品の紹介
http://junkoonorothwell.com/Featured.html